三筆・上

どうも、MoTo-JiNです。

何だかんだ明々後日テストじゃん。

やべぇ、なんかしたっけテス勉。

いやしたんだけど、なんかした気にならないんだよなぁ。

まぁいいか。





本題。

三筆さんぴつ

「〇〇の三筆」って色んな時代の人々がいるけど、

今回ははえある「初代三筆」で。





・about「三筆」

日本書道史上の能書のうちで、最も優れた三人の総称。

初代三筆は以下の三人である。

・空海(弘法大師)

嵯峨天皇さがてんのう

橘逸勢たちばなのはやなり



そんじゃ、それぞれ3人の解説しようと思うけど

まずは空海さんから。

本名は「佐伯眞魚さえきのまお」、諡号しごう(偉い貴族や官僚に、死後に贈られる称号)は「弘法大師こうぼうだいし」。

出身は現在の「香川県善通寺ぜんつうじ市」。



この人色々ラッキーな人でね、

七歳(多分)のときに都に「祖」を運ぶ途中の役人が死んでいるところを見つけ、

本当に神や仏はいるのかと疑問に思い

「実在するなら救ってみろや!」見たいな事言いながら(多分だけどそんな口悪くないでしょ)

崖から飛び降りたのよね。

で、気がついたら家のオフトゥンで寝てたって事が。



密教を学ぶために叔父の「阿刀大足あとのおおたり」の協力を得て遣唐使に加えてもらったが

船が嵐に見舞われて、空海さんが乗ってた船ともう一隻以外は沈んじゃったのよね。



空海が師と仰ぐ「恵果阿闍梨けいかあじゃり(阿闍梨は教えを説く僧侶の事)」は、

空海が彼から真言密教の全てを体得した後(本当に直後も同然)にお亡くなりになられた。



唐の新皇帝の即位祝で日本から使者が送られてきたのだが、

空海は真言密教をいち早く日本に広めるために

「20年の留学」を破って、帰りの船に橘逸勢(実は一緒に来ていた)と共に乗り込んだ。

その時も嵐に見舞われたが、難破することはなかった。

更に、空海と逸勢がその船を逃していたら次に日本から船が来るのは、

空海の入定にゅうじょう(高僧が死ぬこと・瞑想に入ること)後一年後だったとか。



その後は多分ご存知の通り。

いやぁ、改めて見るとやっぱ波乱万丈だなぁ。



文学に付いても達者で。

遣唐使船に乗る前に中学語を、長安に付いて恵果の弟子となる前には梵字を学んだ。

特に中国語は、空海たちを海賊とみなした漂流地の人々の誤解を説くために

文章を提出するための役にたったとか。





損な感じで今日はここまで。

三部作にして嵯峨天皇と橘逸勢も解説するよ。

流石に一日じゃ無理だから。

そんじゃまた、次の記事で。

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